● 永い別れ

ゼロムスが滅び去った後の月の地下渓谷は、これまでと同じように、ただ静かで、ひんやりと冷たかった。
青き星に戻る者、そして月に残る者。
セシルは、兄と呼ぶべき人間の黒い甲冑をただ見つめた。自分と同じ月の民の血を引く男。悪意に操られていただけだとわかっても、やはり滅んだ町、死んでしまった人たちのことを考えると、胸中は複雑だった。
月に残ることを決めたゴルベーザは、セシルたちの方へ顔を向け、静かな声音で呟いた。
「……お前は、きっと俺を許さないだろう。お前をさんざん苦しめてきた、私なのだから……」
その瞳は、セシルを見てはいない。その視線の先は――蒼い鎧を纏った――金色の髪の騎士。だが、彼は操られていた時のことなどすべて忘れている。
ゴルベーザに、あらゆる体位で犯されたことも――毎日のように抱かれていたことも――そして、ゴルベーザに、愛されていた、という事実も。
何度も、血を吐くような表情で、愛している、と言われたこと、噛み付くような口づけを受けたことを。その両腕で、折れんばかりに抱き締められ、首筋に埋もれた唇が何度も同じ言葉を呟いていたことを。愛しげに自分の頬をなぞった指の仕草を。耳元をくすぐった吐息の熱さを。
カインは、すべて忘れてしまった。まるではじめからなかったもののように、そのすべての記憶は、彼の脳裡から消え去った。
そして彼は思い出したのだ。自分が、ローザという娘を愛していたことを。
「おい、兄さんをとめなくていいのか？　セシル」
カインがセシルの肩に触れる。
ああ、何とつれない言葉だろう。まるっきり自分には関係ないことであるかのようだ。この言葉を聞いただけで、自分がゴルベーザなら、月に残ることを新たに決意するだろう、と思う。
同じことを感じ取ったのかもしれない、ゴルベーザは唇を閉ざし、それ以上何も口にはしなかった。
「さよなら…兄さん……！」
セシルはそう言って、兄に背中を向ける。
歩き出そうとした時、突然、誰かの思念が混線してきたかのように頭の中に割り込んできた。

『俺は……確かにゼムスに操られていたのかも知れん。だが、カイン、お前を愛していたことだけは……それだけは、本当だ。カイン……、俺は……俺は』

セシルは思わず足をとめ、振り返った。ローザが「どうしたの？」と不思議そうな顔でセシルを見上げている。
「いや、何でもないんだ」
セシルは首を振るだけの仕草でローザに答えた。その声は、試練の山の上で聞いた父の声よりも低く、弱々しく、それでもはっきりと頭の中に響いていた。
『あれだけのことをしてきて、お前に言えるはずもないが――もう、二度と俺の前には姿を見せてはくれないのか……カイン……』
切なげな、そして愛しげな声音が、何度も何度もカインの名前を繰り返す。
『カイン……お前は俺の人生で出会った人間の中で、一番際立っていた……
親に捨てられ、人間の愛情など拘るまでもない下らないものだと思っていた俺が……唯一、愛し……愛されたいと願った相手。
だがお前はいつも俺に背を向けていた……俺の邪な欲望を、下衆な俺の本性を、知っているかのように。
俺はお前が手に入らないことなど、とうの昔にわかっていた……
だからただ、お前がいれば、俺はそれでよかったのだ……お前がいなくては、俺は生き続けても仕方がない。
だから俺は、ローザを憎んだ。セシルの大事な女のようだからクリスタルとひきかえに人質に取ったあの女を、お前もまた愛していたと知った時、俺は……よほど、あの女を殺したいと願った……だが、お前はそれを許さなかった。……当然だがな……』
「兄さん……あなたは、カインのことを――」
知ってはいたが、これほど直接的に知らしめられると、セシルも胸苦しくなった。
同じ思いを、抱いて来た相手。
月の民クルーヤの息子としてこの地に生を受け、互いに捨て子として誰の愛情も知らずに育って来た。そして産まれて初めて愛した相手がカイン・ハイウインドとは、何と言う皮肉なのだろう。竜の心を開かせるというカインは、それほどに他人の心をも開かせる何かを持っているのだろうか。ともすれば、閉じ籠りがちになってしまう心を、あっさりと開かせてしまうような何かを。
「カイン……」
一番最後のその声だけは、実際に耳に響いてきたような気がした。
思わずセシルはカインに目を遣ったが、当の蒼い鎧の金色の竜騎士には届かなかったようだ。
彼の目は何の未練も名残惜しさも見せず、
その身体はただ、一歩一歩ゴルベーザから遠ざかるのみだった。